高野松次郎
文久元年(1860)刈谷藩士高野彦七の長男に生まれる。
刈谷藩校の文礼館で学んだのち、稲武村(現豊田市)の古橋家で養蚕・農政を学ぶ。
明治18年高野蚕種製造所を設立し、刈谷養蚕の発展に尽力した。
同23年には第2代刈谷町長となる。このころ刈谷駅を廃止して野田の神楽山に移そうという議が高まると、町民といっしょに駅の移転に反対して刈谷駅周辺の整備を行い移転を阻止した。
同39年に元刈谷村や小山村などと合併した刈谷町の第1回の町会議員にもなる。
同40年には県会議員も務める。
翌年創立された刈谷実業同志会(現商工会議所)の初代会長として電話の設置、三河鉄道の敷設、電灯の架設などに尽力した。
刈谷市民だより H20年5月15号 刈谷人物名鑑より